2006年9月17日 (日)

闇の誘いと光明

ココロが文字どおり折れそうになると、家族以外の誰とも話したくなくなる。
たとえそれが仕事であろうと、他人に会うことがわずらわしくてイヤになってくる。

精神が限りなく「引きこもり」状態に近くなっているのかもしれない。
または、無気力症候群かコミュニケーション不全症候群の初期なのかもしれない。
要するに、退行現象に陥っているのだ。

このままどこかへ出奔してしまおうか?
それとも、この世とのつながりを自ら絶つか?
心の闇に支配されそうな自分をなんとか思いとどまらせているのは、
家族や友人たちとのツナガリを感じている自分がいるから……。
そんな気がする。
とても微妙なバランスの上に、かろうじて自分が在ることを再認識。

Banner_03_47 ←明日からは、へこたれずに頑張れるか?

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2006年9月10日 (日)

折れるな、ココロ

人生をそれなりに生きてくると、ただやみくもに突っ走ることは減り、
逆に、反芻してばかりで前に進めないことが多くなってくる。
いったい自分は、今、何をやっているのか?
これから何をやっていきたいのか?
こんなことでいいのか?
懐疑的な思考の螺旋にはまってしまうと、ますます進まなくなってしまう。

そんなとき、自分に言いきかせる。
自分という存在は、自分以上でも自分以下でもない。
今ここに在る、ありのままの自分を受け容れるしかない、と。
そこからしか次には進めないのだ、と。

どうも最近、滅入ることが多く、弱気になっている自分。
心が折れてしまいそうな状態に在る自分。
平静を維持することって、けっこう微妙なバランスの上に成り立っているのだなあ。

自分に対しても、他人に対しても、
ありのままを受け容れる心の広さと懐の深さを持ちたい、
と思う今日この頃。

Banner_01_8 ←愚痴にお付き合い、ありがとう。

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2006年7月30日 (日)

心に風を

生きているとイヤな事やつらい事に心がくじけそうになるときがある。
負の象徴はさまざまな形に姿を変えて、人の心に忍び寄ってくる。
そして、心の奥底に澱となって蓄積されていく。

人はそれを「ストレス」と言ったり、「フォースの暗黒面」と表現したりする。
溜まってしまった悪しきモヤモヤは、うまく開放されることがないと
どんどん大きくなって、その人を支配する「心の闇」というケモノに成長する。
支えることができないほど強大になった心の闇は行き場を失い、
やがて外部(社会)へ害となって解き放たれることになる。

だから、心に淀みを作ってはならない。
心の窓を開けて、もやもやとした悪しき感情を吹き飛ばしてくれる風を
招き入れなければならない。
川の流れに心を浸して、底に溜まった澱を洗い流してもらわなければならない。
心を清浄に保ってくれる風と水と共に在らんことを意識する必要がある。

限られた範囲の中で「うじうじ・くさくさ」していてはいけない。
手足を縮こまらせて狭い空間に閉じこもっているのは誰でも窮屈に感じるもの。
ゆったりとした気持ちで大の字になって寝転ぶことが大事。

太陽がふりそそぐ公園の木陰で、そよ風に吹かれながらのんびり昼寝する感覚。
もしかしたら、そういう心持ちの状態に在ることが
「悟りを開く」ということではないだろうか?

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2006年6月19日 (月)

モノを大切にする心

亡くなった父が私たち家族に遺してくれたものについて考えた。
父は贅沢を好まず(小市民的な贅沢は除くが)、お気に入りの愛用品を大事に
使う人だった。
新式を全て否定していたわけではないが、AT車は好まずMT車に乗る人だった。

子供のころに太平洋戦争を経験した父は、私にはとうてい量り知ることのできない
さまざまな体験をしたことだろう。
価値観が根底から崩れる激動の戦後を経て、高度経済成長を通過し、、
市場競争至上主義、黄白万能主義の時代へと歩んできたわけだ。
その中で、ひとつの答えとして「モノを大切にする心」を得たのかもしれない。
モノ(物・者)を大切にする心。やさしい「こ・こ・ろ」を。

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2006年6月18日 (日)

顔つき

「顔つき」、類語として「顔立ち、容貌、面構え、顔」などがあるが、
感情などによって変わる表情のことを指す。(参照:類語例解辞典(小学館))
人生をそれなりに経験すると、その人の「生き方」や「生きざま」が
好む好まざるにかかわらず「顔つき」に表れてくる。
「誠実と不実」、「謙虚と横柄」、「温和な性格と激昂しやすい性格」など、
その人の顔に不思議と浮かび上がってくる。
何に価値を置き、何を理想と求め、如何に生きてきたか。
その結果が「顔つき」であり、集大成であると言ってよいと思う。

ふり返って、自分はいったいどういう「顔つき」をしているのだろう。
人生の達人には、どうすれば近づいていくことができるのだろう。
「人のありよう」とはいったい何なんだろう。
わからない。わからないが、前を向いて進んでいかなければならない。

PS.まもなく対クロアチア戦がキックオフされる。
   勝っても負けても、日本代表にはサムライの「顔つき」で
   胸を張ってピッチに立っていてもらいたい。頑張れ!

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2006年6月14日 (水)

求めるものは身近にあるかも?

SFの巨匠アイザック・アシモフの「銀河帝国衰亡史シリーズ」は、
心理歴史学の有用性を提唱し、死後にそれを実証していくハリー・セルダンが
ユニークだが、彼が設立したファウンデーションの存在が興味深い。
崩壊した銀河帝国の暗黒期(数千年or数万年だったか?)を極力短縮するために、
それを助けるコントロール機関として、銀河の中心「トランター」に
ハリー・セルダンは第一ファウンデーションを設立する。
それと同時に、第一ファウンデーションを隠密に監視する機関として
第二ファウンデーションも設立する。
第一ファウンデーションに気付かれることのないよう、完全な対象の地に。

衰亡史のクライマックスでは、第二ファウンデーションの存在を知った
第一ファウンデーションが、「対象の地」という設立条件をヒントに
自分たちをコントロールする第二ファウンデーションを探索する。
銀河という円の中心の対象位置は外周部だ、という結論に至るのだが、
実はまちがいで、中心の対象は中心、つまり「トランター」に在るというのがオチ。
かくて第二ファウンデーションは発見されることなく、ハリー・セルダンの
当初プランどおりに任務(第一の監視)は遂行されていく。

前置きが限りなく長くなってしまったが、何が言いたかったかというと
我々が求めてやまないものは実は最も身近にあるのではないか、ということ。
大切なもの、価値のあるもの、愛するもの、守るべきもの、いわゆる幸せの芽は
見えないけれど自分のすぐそばにあるのかもしれない

Banner_03_12 ←普段は気付いていない大切なものに感謝を!

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2006年5月16日 (火)

25億秒の軌跡

人生80年(寿命80年)と仮定しよう。

  → 80[年]=365×80[日]=29,200[日]
  → 29,200[日]=24×29,200[時間]=700,800[時間]
  → 700,800[時間]=60×700,800[分]=42,048,000[分]
  → 42,048,000[分]=60×42,048,000[秒]=2,522,880,000[秒]

以上のように、人生80年はたったの25億秒ということ。
25億秒!!
生まれてから死ぬまで、飲まず食わずで1秒毎にカウントできたとしても
たった25億しか勘定できないということだ。
私を含めて、人は一生25億秒の生涯でどのような軌跡をたどるのだろう?
意味のある25億秒にできればよいのだが。果たして...。

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2006年5月 7日 (日)

志学・而立・不惑・知命・耳順

黄金週間最後の日は、あいにくの雨。
風邪が完治していない身としては一日中家でおとなしくしているしかなく、
雨のおかげで心静かに過ごすことができた。

降り続く雨は、夜の静寂をともなって、辺りに闇を呼んでくる。
ひっそりと静まりかえった居間で、なんということなくぼんやり考えていると、
ふと、論語から出たある言葉を想い出した。
すなわち、「志学・而立・不惑・知命・耳順」。

新明解国語辞典第六版(三省堂)によると、論語を出典とする語として
次のように説明がなされている。
  ・志学:学問に志す意。「十五歳」の異称。
  ・而立:三十にして立つ意。「三十歳」の異称。」
  ・不惑:四十にして惑わずの意。「四十歳」の異称。
  ・知命:五十にして天命を知る意。「五十歳」の異称。
       天職と自己の能力の限界とを共に悟る年齢。
  ・耳順:六十にして耳順(したが)う、すなわち、何を聞いても、
       すなおに受け入れる意。「六十歳」の異称。

後世の者を諭すために、孔子は貴重な言葉を残された。
出来そうにみえて、その実、簡単に成すことはできない
非常に難しい理想を指し示した言葉だ、と私は思う。
さまざまな誘惑に打ち勝って学問を志すことは、十五歳には難しいだろう。
三十歳、その時点で自立(而立)できている人がどれほどいるだろうか?
四十歳、人生半ばにして迷う(惑う)ことばかりで、己の行く末に確信を持てる者が
果たしているだろうか?
五十歳、天命に副うことのできる自分を形づくることができているだろうか?
六十歳、人生長い頑固者がすなおに他人の意見を聞き入れることができようか?

考えれば考えるほど、深く、重く、ちっぽけな心にのしかかってくる。
天と地のはざまで、人はいったい何ができるのだろうか?

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2006年3月11日 (土)

水、生命の源

水がないと生き物は死んでしまう。
物心ついて知り得た知識のなかで、初めてにして最も衝撃を受けた事実だった。
幼稚園年長組の5月のことだったと思う。

年長組になると幼稚園から毎月幼児向けの科学雑誌が配本された。
キンダーブックのような類のものだったと思う。
5月、記念すべき配本第1号となった6月号のテーマは「水」。
「この世に生きとし生ける物は、水がないと生きていくことはできない」
といった内容のことがそこには書かれていた。
今までそんなことを少しも考えたことがなかった5歳の幼稚園児は、
腰を抜かさんばかりに驚いた。
そして、自分を含む人間の存在をとても心細く感じた。
人間と自然との大切なつながりを、私が初めて感じた瞬間でもあった。

太陽系第三惑星である地球は、その奇跡的な公転軌道によって
生命を育むことのできる環境を得た。
太陽との絶妙な位置関係によって、水に三態(固体・液体・気体)を与えた。
その結果、氷と水と水蒸気の相互変態によって、地球には気象が生じた。
そして、そんな森羅万象のなかで我々生き物は誕生した。

春の陽気につつまれた好天の京都で、何故か、ふと思い出した。

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2006年2月19日 (日)

晴耕雨読の日々

特別に何かするというわけでなく、日がな一日無為に過ごせて
とても贅沢な週末だった。
四季の移ろいとともに日々を自然体で過ごせたら、
少しは潤いのある人生を歩んでいけるのかもしれない。
過去でも未来でもなく、今現在を楽しむことがいちばん大切なのだな、と思う。

憧れの晴耕雨読の日々が、いずれ本当に訪れるのか?
(「雨読」に偏重しているようでは実現は無理か?)
まあ深いことは考えず、気楽に生きていくとしよう!

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