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2006年11月11日 (土)

うそつきは泥棒の始まり

最近、今更ながらあらためて気になっている言葉がふたつ。
ひとつは表題に挙げた「うそつきは泥棒の始まり」で、
もうひとつは「天の神様が見てはる」。
標準語に直すと「天の神様が見ておられる」かな?
子供のころ、些細な悪さをしては、親を含めた大人から叱られたものです。

さて、ここからは一般論。

最初は些細な「ウソ」をつくことから始まる。
そして、その次は前回よりも少し「ウソ」が大きくなっていく。
少しずつ、少しずつ、「ウソ」は雪だるま式に大きくなっていく。
気がついたときには、巨大になった「ウソ」を自分の力だけでは解決することが
できなくなっている。
うそつきから犯罪者へ。
「万引き→泥棒・強盗」然り、「酒気帯び運転→泥酔運転→交通事故」然り。
「ウソ」をつく、つかないの間には、とてつもなく高い壁がそびえ立っているが、
一度越えてしまった壁の向こうには跨ぐことのできる高さのハードルしかない。
だから最初が肝心。
「うそつきは泥棒の始まり」。

何か悪いことをしたくなったときの歯止めになるものは?
憲法? 刑法? 民法? 商法? その他もろもろの法律?
いやいや、実はそのどれでもない。
最終的にやる、やらないを決める拠り所は、その人の「ココロ」の中に在る。
どんなに厳しい罰を謳った法で縛ろうとしても、法を犯す者は必ず出てくる。
その人の「ココロ」の中に、悪事を拒否する気持ちがなければ止まらない。
では、悪事を阻止することはできないのか?
ありがたいことに、ひとつだけある(と思う)。
「天の神様が見てはる」
たとえ世の中の全ての人を騙すことができたとしても、天の神様は見てはる。
「天の神様」は、その人の「ココロ」の中に在るのだから。
その気持ちを持ち続けることができれば、きっと……。

夏目漱石晩年の言葉、「則天去私(天に則りて、私を去る)」。

Banner_03_62 ←昔の人が遺してくれた言葉は深いなあ、と思う今日この頃。

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